火星の音

冬乃くじ


 使っていないSNSにログインしたら、「新しいメッセージが届いています」と表示された。日付は七年前で、差出人は中高時代の同級生の、川嶋だった。「久しぶり。先日、✕✕✕と知り合ったんだけど、サクと友達だと聞いて、懐かしくなって探しました。元気? 僕は今度、リサイタルをします。」

 川嶋桜音は小さい頃からピアノを習っていて、学校行事でピアノが必要なときは毎回演奏させられていた。それはだいぶ理不尽な仕打ちだとサクは思っていたけれど、桜音は「うちの学校のピアノはけっこういいやつだから、悪くない」と笑っていた。悪くない、というのが桜音の口癖だった。なにかの賞をとったときも、なぜか授業中に春雨が配られたときも、同じ口調で「悪くないね」と言った。いいとか悪いとかは言わなかった。たぶんそういうときは黙っていた。悪くないと思うときだけ声を発しているみたいだった。

 桜音は遠い存在だった。花に囲まれた舞台にあらわれ、ピアノに向かうと、桜音は突然子どもでいることをやめ、話しかけてはいけない大人のような顔になった。今思えばその音楽への態度は、何百年も前の師匠から受け継がれたもので、桜音は桜音のままでいられなかったのだろう。その横顔は桜音を特別な存在にもしたし、周囲への高い壁にもなった。だからクラスの発表会の音響係に桜音とサクが選ばれたとき、音楽のわからないサクはぎょっとした。緊張のあまり二回転んだ。

 放課後、桜音が曲の候補をいくつか聴かせてくれたが、サクにはどれも同じに思えた。でも何も言わないのもなんだから、なんかいいような気がする曲のとき、それいいんじゃない、とか、それも、とか言ってみた。すると、桜音がふっと笑った。サクは、音楽に詳しくない自分を見透かされた気がして赤面したが、つづく桜音の言葉は意外なものだった。
「サクって、人が死ぬ場面の曲ばかり選ぶんだね」

「ごめん 久しぶりにログインして、今見ました 佐久良です 手紙ありがとう お元気ですか」なかなか既読はつかなかった。桜音のタイムラインを見に行くと、十日前、てんとう虫が楽譜にくっついている写真をあげていた。夜になっても反応はなかった。サクは満月の写真を自分のタイムラインにあげた。どんな言葉を添えればいいかわからなかったから、「満月」とだけ書いた。

 人が死ぬ音楽ばかり選ぶ、という桜音の指摘は少なからず衝撃的だったが、サクに奇妙な自信を与えた。その言葉はサクにとって魔法の言葉となり、膨大な音楽世界の灯台のように光り輝き、誇るべきしるしとなって、サクを支配した。サクはタイトルに死のついた音楽はもちろん、死の場面の音楽とあれば必ず聴くようになった。ミュージカルもアニメもドラマも、ゲームも映画もオペラもバレエも聴いた。その熱は二十歳まで続いた。

 なぜ熱がさめたかというと、死が重みのある事実として認識されるようになり、音楽によって表現された死を浴びることに疲れてしまったからだ。物語は常に意外な死を提示してきた。自分はそんなふうに死にたくなかったし、現実の死はもっと即物的だった。この生がどんなふうに終わればいいのかはわからなかったが、少なくともBGMのつくような死ではなかった。サクは死と音楽を混同していた。

 桜音との放課後は楽しかった。クラスではピアノが桜音のアイデンティティみたいになっていたけれど、どちらかというと桜音は本好きで、読んだ本の話ばかりした。サクも本が好きだった。本の趣味は合わなかったが、互いが好きなものを主張しあうだけで楽しかった。あるとき、サクの知らない名前を桜音が言った。「――はさ、本とかぜんぜん読まなくて」そう言って笑った。桜音と同じピアノの師匠の門下生らしかった。その門下生が桜音の恋人と知ったとき、それまでの喜びは苦しみに変わった。

「サク! 遅いよ。元気だよ。そっちも元気かな。こんなのばっかりで恐縮だけど、また今度リサイタルをやるよ。」「そうなんだ! ピアノだよね 今度こそ行きたい 七年前の、行けなかったから」「ありがとう。あれね、来て欲しかったなあ。今度の、告知出たら送るね。六月八日と九日の予定。」返事はそれなりに早いスパンで来た。久しぶりの桜音とのやりとりを満面の笑みで見続けて、サクはうっかり鍋を焦がした。焦がしちゃった、と思いながら一人笑った。「了解 今さミルク火にかけてるの忘れてて 焦がしたけど飲んでる」「ホットミルク、焦げたやつも悪くないよね。僕も作ろうかな」まだ恋人いるのとか結婚したのとか、そういうことは聞きたかったけれど聞きたくなかったし、聞けなかった。むしろ自分の書く文字のひとつひとつ、すべて「好き」と言っているような気がして、すこしこわかった。

 死の音楽に飽いても、夜になるとネットで音楽を漁る習慣は消えなかった。ベッドの中でスマホをいじって、朝になることもあった。そんな夜、サクはある映像に心を奪われた。

 それは火星探査機が撮った火星の映像だった。赤茶けた砂漠。ところどころに岩が散らばり、枯れた大地がどこまでも続き、風の音だけがしていた。その音はサクの抱く理想的な死の音だった。静かで、生物のいない音。それからサクは、音楽よりも音を探すことに傾倒していった。自分の心にそぐう音を。だがそれは音楽よりも容易ではなかった。孤独を感じるたび、サクは火星の映像をひらき、耳を傾けた。何も生えない、誰もいない、風だけが吹く星の音に。それを聞くと息が吐けた。そこから来てそこへ帰ってゆくのだと思えた。その音のなかに音楽を感じた。

 だがあるとき、その火星の映像につけられた風の音が、実際の音ではないと書かれている記事を読んだ。もともと音とは、なにかを振動させたときにできる波で、空気などを通って伝わる。そしてその波が、耳の鼓膜を振動させたときに生まれる信号を、脳が音に変換している。地球と違って火星は空気が薄い。そのため音が伝わりにくく、地球上と同じには聞こえない。だからこの映像についている風の音は、探査機が受けた振動を音に変換しています。――そんなふうに書いてあった。じゃあこの、自分が拠り所にしているこの音は、実際には聞こえない音なのか。サクは失望したような、むしろ勇気づけられたような、へんな気持ちになった。よけいに孤独が深まるような気もした。いつともなく、サクは音を探すことをやめてしまった。

「この映像知ってる? 火星探査機が撮ってきたやつ この風の音が好きで 一時期ずっと聞いてた 音楽みたいだと思った」すぐ既読マークはついて、しばらく返事がなかった。映像をくりかえし見ている桜音の姿を思い浮かべて、サクはどきどきした。一緒に音楽を聴いていた放課後みたいだった。目をつぶると、あのときの教室の光の色や空気の感じがよみがえるような気がした。通知音がして、サクは急いでメッセージをひらいた。「懐かしい、そういえば火星のニュースあったね。動画見たよ。なんかサクっぽい。あとさ、もしかすると言ったことなかったかもしれないんだけど、実は僕もともと右耳が聴こえてなくて、まあ左が聴こえてるから気にしてなかったんだけど、三年前に左もうまく聴こえなくなっちゃって。だからサクの好きな音が聴き取れてるかわからないんだけど、風の音に音楽を見出だすのは素敵だなとおもった」メッセージの最後には、にっこり笑った顔の絵文字がついていた。

 サクは頭が真っ白になった。耳が聞こえない? 昔から? 三年前に両耳って、じゃあ七年前は……。言葉を失っている間に、次のメッセージがきた。「ごめんびっくりさせたかもだけど、補聴器つけてるから、ふだんの生活は多少大変なだけで、悪くない」またすぐ来た。「前とまったく同じではないけど、ピアノも弾けるし、」「難聴って言ってもいろいろなんだ。もっと大変な人はたくさんいて、僕はそこまでじゃない、音楽会ではそれを売りにしちゃってるけど……。」「ごめんいっぱい送っちゃった」

 メッセージが矢継ぎ早に届く間、サクは返事を書き始めていたが、何度も書いては消していた。事情はのみこめたが、どう反応したら桜音を傷つけないのかわからなかった。何を書いても傷つけてしまう気がした。右耳が聞こえていないのに気づいていなかったこともショックだった。でもそういえば桜音はときどき席を変えることがあったし、クラスメートの挨拶なんかを無視しているようなときがあったし、クラスの空気が読めないときも、何度か聞き返すときもあった。サクは返事を打った。「桜音 これから書く言葉に、桜音が傷つかないといいんだけど まず昔気づかなくてごめん 桜音の苦労わからなくてごめん 悪くない日々だったかもしれないけど、簡単じゃないときもあったよね 右耳聞こえないならこうした方がスムーズだとか、そういう配慮を周りが普通にできればよかったのに 桜音が言い出しにくい空気を作っていてごめん ――書き終わらないうちに、メッセージが届く。「こう言ったらなんだけどこの耳を売りにしてからは、ピアノ聴きにきてくれる人は増えたんだよ。だから悪くないんだ。まあでも、だからこそノーミスを目指すようになっちゃったけど。頑張ってるだけで誉められたくないというか。いや、もともとミスなんかしたくないんだけどね笑」サクは書き続ける。―― ごめん 桜音の耳が売り物になるような社会でごめん 桜音の音楽を聴きに来ている人たちはたぶんいろいろで、出来ないはずの人が頑張ってるとか、そういう見世物を欲している人だけじゃないと思うよ そういう人もいるかもしれないけど でも、 ――また届く。「ただ、いつまで続けられるかわからない気持ちは、すこしあるよね。」「なんかね……どうなんだろうね。わからないよね。」―― わからない、たとえば桜音の指からこぼれる音楽に人間の可能性を感じて、感動が倍増することはあるかもしれないけれど、 ――「こういうことを言ったらいけないんだろうけど、完全に聞こえないならまだよかったとか、思わないでもない。ベートーヴェンみたいに。いやそんなことない、全部聞こえなければいいとかそんなことはないんだけど、まったく聞こえないなら諦めきれるものが、どうしても諦められないし、視覚とか嗅覚が鋭くなったかっていうと僕はそうでもないし。かえって聴覚にしがみついてる」「結局、むかし習得した体の再現をしているだけなんだよ。今。他人の耳を借りて。だから舞台がつらい。脳の血管が切れそうになる。こんなこと続けてたら、全部聴こえなくなっちゃうかもしれないって不安になる」「なんかいっぱい書いちゃうな。音楽仲間には話せないから」「話せないんだよ、みんな敵っていうわけじゃないけど、敵みたいなものだから」―― うまく言えないけど、単一じゃない ――「敵じゃない。でも敵」―― あと、さっき言いそこねたんだけど さっき送った火星の映像の音は、探査機のとらえた振動を音に変換したもので、実際の火星では聞こえないんだ 大気がうすいから だからあの風の本当の音は、地球上のどの耳もとらえることができない おれが昔聞き続けたのは、たぶんあの音の奥に存在する何かを感じたかったから 奥にある何かに惹かれた、それを音楽だと思った うまく言えないけど、音楽ってそういうものな気がする ――「ときどき、自分は本当の音楽ができているんだろうかって悩む。」―― 空気を震わせて消えてしまう音の連続の中にある、とらえがたい何かのかたまりこそが音楽というか 実際にいろんな人の耳に届く音と音楽は、もともと違うものというか ――「だって本当は、本当なら、違うんじゃないか。なんでここまで、ミスすることに怯えてるのかって、そりゃ昔からミスなんかしたくなかったけど、ミスしなかったときの、音楽がたちのぼったときとか完成したときの一体感とか感動とか、そういうのが今はなくて、苦しい。疲労と反省しかない。他人のために生きてる。」―― 桜音、ごめん、おれは音楽に詳しくないからわからないんだけど 桜音のその苦しみは、数百年前の音楽に数百年前の態度で臨まなきゃいけないからなんじゃないか それはそれで誠実だと思うけど、でも ――「この音楽は僕のための音楽じゃない。自分の手のなかに自分の音楽がない、でもそんなこと、絶対に認めたくない、絶対に認めたくないけど、」―― もしもその、数百年前の態度を、桜音の耳が売り物になる社会のために守っているのなら それはもうやめてもいいんじゃないか 今の体で、今の音楽をやってもいいんじゃないか だってそうじゃない社会もあるはずだよ今は 人は単一じゃないんだから ――「いっそ他人の耳を捨てて、今の体が赴くままに弾いたほうが、本物の音楽に近づくんじゃないのか? そっちのほうがずっといいんじゃないか。そうしたら僕は音楽を取り戻せるんじゃないか、だって音楽をするって、そういうことだったんじゃなかったか」―― 桜音 桜音、ごめん、おれ、うまく言えないんだけど 桜音が背負わされているものを おれも一緒に背負いたい」

 高校二年の冬、桜音の師匠と門下生による発表会があった。サクはその予定をたまたま知って、「行きたい」と言った。桜音は驚き、笑って言った。「サクが興味もつと思わなかったな。楽しめるといいけど」

 それはサクにとって初めての音楽会だった。プログラムに桜音の恋人の名前はなかった。日曜日だけど桜音は制服で、ちょっと長めの曲をひとつ弾いた。次の弾き手の演奏が始まったとき、客席の後ろから手ぶらの桜音が来て、サクの右隣に座った。それからサクの耳元でささやいた。「最後まで聴く?」サクは戸惑った。こういうのって、最後まで聞かないことあるのか。桜音は続ける。「僕ちょっと疲れたから、抜けたくて」

 誰もいないホワイエで待っていると、大きなリュックを背負い、花束を三袋抱えた桜音がやってきた。「すごい」とサクが言うと、桜音は「……。熱心な方がね、いらっしゃって。ありがたいことです」と苦笑した。「持つ?」「ありがとう、大丈夫」

 外はまだ明るかった。桜音が「このへん来たことある?」と聞いてきた。サクが首を振る。「じゃあ土手歩いて駅まで行こう。この土手、春になると綺麗な桜並木になるんだ」サクは頭上を見渡した。冬木でこの枝ぶりならば、確かに春はすごいだろう。春には人で混むのだろうな。サクは冬の枝々の上に、こぼれる桜の花を想像した。春の陽気と、無数の桜蕾と、風に舞う花吹雪を。ふと桜音の持っている袋のひとつに目が止まる。「その花束、もしかして桜? 今気づいた。造花じゃないよね。早すぎない?」「これ寒桜って言って、今の時期咲くやつなの」「そうなんだ。ああ、なるほど。桜音の名前に桜の字があるから桜をくれたんだね、その人」「べつに桜の字なくてもオトなんだけどね、僕は」「おれの名前もサクラだから、いつかおれが舞台に立ったら、ファンに桜もらえるかな」「ああ、あげるあげる」「ねえ疲れてるでしょ、やっぱ持つ?」「ありがと、持って」

 電車に乗ると、乗客で椅子は埋まっていた。桜音はフーッとため息をつき、花束の紙袋を三つ、自分の足元に置いた。電車の無機質な床に、突然花が咲いたようだった。その姿を見て、サクはふっと笑った。桜音がまるで、区切られた花畑に立つ老人みたいだったからだ。


火星の音

著者 冬乃くじ

監修 薄葉ゆきえ(株式会社ミライロ)/貝つぶ(音遊びの会)

本作品は、小説×音楽のコンサート「IMAGINARC 想像力の音楽」のテーマ「懐かしい星」によせて書かれたもので、出版にさきがけ、公開するものです。

「IMAGINARC 想像力の音楽」は、2台ピアノの音楽会なのですが、なにかとカテゴライズされたりヒエラルキーをつけられたりしがちな世の中を変える、ジャンルを越境する、というコンセプトで始まった、小説と音楽のアンソロジー企画です。音楽会では「魔法の庭」「懐かしい星」「異形たちの輪舞曲」「都市の墓標」「天命」という5つのテーマのもと、ジャンルを超えて既存の曲と新曲が集められ演奏されます。そして会場で売られるプログラム冊子(全96ページ、1500円予定)には、同じ5つのテーマによせた11人の小説家による15編の新作が収録されます。冬乃くじ作品は「火星の音」をふくめて5編。そして小山田浩子、糸川乃衣、菅浩江、白髪くくる、雛倉さりえ、藤沢祥、藤田雅矢、宮月中、森下一仁、吉田棒一の新作が各1編収録されます。プログラム冊子は共通で、全国4都市8公演、どの会場でもお買い求めいただけます。東京公演は2024年6月11~15日、豊洲シビックホールにて。チケット販売中です。くわしくは当サイトにてご確認ください。

(作品順は変更される可能性があります)

●魔法の庭
冬乃くじ「ボロソコモダップ」
雛倉さりえ「群舞」
宮月中「ミッシェルのオルゴール」

●異形たちの輪舞曲
小山田浩子「耳」
冬乃くじ「ルッカとはしごと死神の馬」
藤田雅矢「空の瞳」

●都市の墓標
藤沢祥「緑の縫い糸」
吉田棒一「バースデイ」
冬乃くじ「さなぎ計画」

●天命
糸川乃衣「1/∞の猫」
冬乃くじ「自分の足で」
白髪くくる「祖父の赤紙」

●懐かしい星
菅浩江「郷愁」
森下一仁「宮殿造営」
冬乃くじ「火星の音」

本作品の著作権は冬乃くじに帰属します。

本作品を無断で複写複製、転載、データ配信、オークション出品等することを、固く禁じます。